昭和四十六年十月二十五日 御理解 第八十一節『氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ、十里を登り切って向こうへ降りたらそれで安心じゃ、気を緩めると直ぐに後にもどるぞ』




 此処までは信心を進めて居かなければならん、ここまでは登り切っておかなければならん、と言う事でしょうが、言うならばもう此処まで来れば安心と言う、ところまでと言う意味でしょうか、それにも様々な一つの段階と言うか、有ると思うですね、昨日合楽の野口さんのお孫さんが出来られました、その丁度大祭の前日が日晴れと言いますか赤ちゃんの初参りでありましたが、丁度大祭の前で御用があるからと言うので、御礼まわりとか何とかのことを昨日なさいました、昨日一家中でまわられて一番最後に皆でここえおいでられてからの話しです、けれども息子さん達夫婦が未だ信心がわかっておると言う訳でもなからなければ、熱心にお参りして来ると言う訳でもない、けれども今日久留米の方へ皆で行かれる、道中で夫婦がこんな事を話しておりますと、と言って野口さんが御礼を申しておられましたが。
 合楽教会にお参りをさせて頂いて、御理解を頂かなかったら、値打ちはないのと言うてから夫婦で話しておりますと言うのである、だから私が申しました、そこまでまあ金光教の御信心を頂いたら、合楽の信心をそこまで分かったら、もう安心ね野口さんと言うた事でした、これなんかは一番手前の言うならば九里半、十里の坂を登り切ったところと思うですね、合楽にお参りさせて頂いたら御理解を頂かなければ値打ちはないと、御理解を頂く事が楽しみになったと、又は有難いと本当にそれは思いますよ。 遠方からわざわざお参りをしといて、御理解一つ頂かずにお願いだけをお願いして、ぽんぽん柏手うって帰る人がありまがね、それがどんなに良い信心しよってもですね、これは心もとない気がしますね、それがどんなに良い信心しよってもですね、これは心もとない気がしますね、やっぱり人間が様々な事柄に出会う、問題に出会う事はこれは絶対でありますか、そう言う時に心が神様に向かわん筈はないし、同時にその問題を御教えに依って解決しようと言う様な、心が出来てくればもう大丈夫と言う事、問題はあってもそこに解決点が出来て来ると言う事がわかっておる、御理解がどんなおかげを頂くと言う事か本人達にそれがわかったと言う事かね、例えば皆さんの子供でもそうですよ、合楽にお参りをさせて頂いて、御理解を頂かして貰う教えを受けると言うことが有難いとわからせて頂いたら、もう大丈夫、例えば娘を嫁にやると致しましても、そこまでの信心をわからせておくと言うか、子供がわかってくれるところまで、信心を頂いておったら親もまず安心だと思うですね、問題はありましょう。
 けれども助かられる糸口をはっきり握っておられるからです、只時々金光様に参りよる参ったばってんおかげ頂かじゃったと、言う様な信心では熱心に参りよっても安心はいきませんですね、けれども金光様の信心の有難いことがわかると言うか、教えの有難さをわからして貰って、合楽にお参りをして御理解を頂かなかったら、お参りの値打ちはないと言うところまで、私はわかったら親も安心だと思う、それは娘はお嫁にやる、いろんな問題があるけれども金光様にお縋りすると同時に、その問題をお道によって教えに基付いて解決しょうとする、解決させて頂く一つの術と言うかね、行き方と言うものを体得させて頂いたら、それはもう何十年信心させて、何十年と言うか、まあ合楽の場合は十年二十年信心しとってもです、ここんところがわからなかったら、未だ九里半のところですよ、十里登り切っていないのです、昨日の御理解から言うと家族中の者が勢を揃えて信心して、問題はある、だがいろいろ討論もあろう、争いもあろうけれどもです、ならぎりぎりのところ親先生はどげん、仰るかと親先生の仰る通り解決すると、例えば道を開こうと言う事になったら、その家庭はもうある意味で大丈夫です
 家族ぐるみ家族ぐるみに、言うならもう十里の坂を登り切ってると言うても良いですね、安心です、個人においては只今申しました、嫁にやる娘がです、信心の有難さとかおかげを頂くと言う事が、分かっておるだけでは駄目です、おかげを頂かなかったら、自分の思う様にならなかったら、矢張り無信心にもなりましょう、まあ神様も信ぜられないと言う事になって来るでしょう、けれどもそれは、野口さんの例を言うと、未だ数える位しかお参りした事のない、息子達夫婦がです、夫婦が話し合ってる、合楽にお参りさせて頂くと言う事は、御教えを受けると言うことが値打ちだ、でなかったら合楽にお参りする値打ちはないと、そこまでわかれば親も若夫婦に対して、安心が出来るねと言うことになるのです、それを一家の上にすれば、一家中がいろんな意見が対立する場合も有りましょう。言うならばお互いが責め合うことも有りましょう。
まあそれが しで親子喧嘩になる事もあろう、夫婦喧嘩になる事もありましょう、けれどもそこにです解決点を信心によって解決しょうと言う、いやそれが一番間違い事だとわからせて貰う、親先生がなんとおっしゃるかと、御教えには何とあるのかとそこから解決を見出だそうとする、姿勢と言うかそう言うものが家族中の中にできたら、もうその家は九里半じゃなくて、十里を登りきった様なものだと、そこに神様も安心して下さる事じゃなかろうかと、信心の段階と言うか、段階をおうての、十里の坂を九里半のぼっても、安心してはならんとこう言うておられる、だからここのところではもうここまで来れば安心、だと言う信心を容易いところから聞いて頂いた訳です。
 おかげを頂くと言う事です、例えば足げく参ってまいりまして、そのおかげが思う通りに頂ければ良いけれども、自分の思う思い通りにならなかったら、神様も良い加減と思う様になったら安心はいかんでしょう、同時に私はねこう言う事が言えると思う、成程神様は有難いお方じゃと思うと同時に、神様は怖いお方じゃとわかる、先日の大祭に熊谷さんところのお姉さんが、大郎原におられますそれを合楽の大祭を昔の十六日と思い違いしてあったらしい、それで大祭は二十日ですよと、一緒にお参りしましょうと言うことであった、まあ年に何回しか参って見えません、御大祭度にしか参られないですけれども、特別に願いでもあればまた参って見えます、その程度の御信心ですけども、ですから熊谷さん、もう参って来るかもう参って来るかと、お姉さん一家の方が参って来る事を心待ちにしておられるけれども、とうとうお参りが出来なかった、そしたところが丁度別府の温泉に誘われる方があって、温泉の方へ行ったと言うのである。
 まあ熊谷さんがっかりされること、折角年に一回の教祖大祭に、神様の有難味が本当の意味でわからんもんだから、別府の温泉にどもひたる事じゃないが、御大祭の御ヒレイに浴すると言うことは、本当に有難い事だけれども信心が薄いからわからんと、今がっかりしておられるところに、連絡があってお姉さんが別府の温泉で倒れられたと言う事、そしてそのまま家に帰られた、それで早速見舞いに行かれたところが大変な重態である、もう今にもこれはお参りしかかっとると言う位に、その間一生懸命信心の話しをなさった、病人ではない方達のところで一生懸命、信心の話しをさせて頂きよるところへ、丁度お医者さんが見えたそしてお医者さんが、あわてられてからこれはもう参りござるたいと言うある、さあ早く親戚に知らせなさいと言うことじゃった、それから一生懸命家族の方に話しをしておられた、その信心の心がもえておる信心の有難さが、たぎっておる時ですから、お姉さんのもうとてもむつかしかろうと言う状態の、お姉さんの耳元にもっていってね、今神様から手術をして貰いよるとですよと呼ばっしゃった、そしたら目が覚めた様にですね、段々おかげを頂いて顔色が良くなって、お医者さんが次に見えた時にはこれはちよっと手術をするのは見合わせ様と、待って見ようと言うところまでおかげ頂いたと言うのです、又或る人がね御大祭にいろんな大事な御用があった。
それで勿論お参りすることにしてあったところが何かの調子で、お参りしない事になってそれこそ長椅子に寝ぞべり反ってテケビどん見よった、もう合楽では御大祭があっている時間じゃなかったでしょうか、それこそ思いもかけない突発的な事が起こってね、親戚方のちょっと酔狂気のあるとでしょうたい、やってきてそれこそ踏んだり蹴ったりして、合楽にども参っておればこげな事もなかったろうのに、それこそ片一方の方は親戚のものからそげな事されたので、歯がゆうしてそれこそこの仇うたにゃおかんと言う様な、兄弟ですよ、でそう言う問題が起きておる、合楽に参っておったら何もなかったろう、只有難いばっかりであったろうのにと、所謂大事な御用があるのに御用をほっぽらかして、所謂お参りせずにテレビどん見よった時に起きたのがそう言う問題である、 だからお参りしとれば何事もなかったけん、お神さんがお参りをしなかったから、神様が罰を与えなさったと言う事では決してないのですよ、そう言う難儀な事が起きようとしておるから、日ごろ御信心を頂いて御信心を頂いておるから、その大難をよけさせて下さろうかと言う、神様がこう手を差し伸べておられる様だけども、その手を払ってお参りをせずに、寝そべってテレビを見ておる様なことであったり、お参りをする約束をさせて頂きながら、丁度別府の温泉の方へどうかと誘われたら、大祭にお参りせんなんばってん、温泉の方さえ行こうと言うたけん、その人は罰かぶんなさったと言うことでは決してないです、それこそ温泉で倒れなさったと、なら家で風呂に入って倒れなさった、と言うことであろうが、もうそういうこの場合なんかはもうぜったい亡くなられると言う、お知らせでしたからね、もうこの人は寿命が尽きたと言う大難がそこにかかって来ておる事を、神様が大祭にお参りさせて頂いて、大祭の余徳によってです又そこに、生き延ばしのおかげを頂こう、年に何回であっても合楽に御神縁を頂いておる事がです、その様な働きになって来るけれども、それをそれと信心が出来ておらんと気が付かん、そう言う場合です成る程神様は有難いけれども、又怖い方じゃなあと言うことにも、見える話しでもあります、残念なことですよね、妹婿の兄弟からそれこそあなた踏んだり、片方は素面、片一方は酔っぱらとるもんじゃけん、仕様がない、そして踏んだり蹴ったりされる様な、それこそはがゆうして、仇討ちをせにゃおかんと言った様な、浅ましい心を起こす様な程しになって来た、御大祭にお参りしとけば何でもない事であった、向こうから電話が掛かって来ても、やって来てもとても合楽まで押しかけて来て、打ったり叩いたりする事はなかろう、その辺のタイミングが悪かった。
 まあそう言う例から言うとです、言うならば神様の有難いことも充分わかっておるけれどもまた、神様はある意味に於いて、怖い方じゃなと、おかげを受けさせたい一念がです そういう形になって表れる事もあり、そう言う事が必ずお互いの体験の上に表れて来ると思うです、ですから信心もですねそこまで有難いだけでなくて、怖いお方じゃと言うところまで行ったら、もう信心は止められないと言うことになるでしょう、もうこの氏子は安心じゃと言うことになる、この神様は決して、この頃無信心になっとりますから、この頃お気付けばっかり頂いてばちかぶっとりますと、言うて氏子に対して二代金光様はおっしゃられます、この神様は罰を当てる暇があるならおかげをやるわいと仰った、そう言う神様なのです、だから罰等とと言うことではないと、もうそこには死なねばならない程しのもう打って叩かれなければならない、様な運命がそこにあると言う事、だからそこからのがれさせてくださろうとする、働きが手を差し伸べて下さるのだけれどもです、その手を打ち払って長くなって寝とったり、温泉に行ったりしとるから、当たり前の事があたり前として、起こっただけの事である。
 それを只或る見方をしますとです、私どもでもそれを思う、本当に神様は有難いお方であると同時に、神様は又怖いお方じゃとこれは又信心がずーっと進んでからの境地です、なぜって親だからです、信心のあるものと無いものは、親のある子と無い子程の違いと仰られる、親の無い、例えて言うなら浮浪児の様なものであるとしますならば、着るものが破れておろうが汚れておろうが、誰もどう言い手がありません、頭が汚れとったっちゃ、それを拭いてやろうというものも、だからおりません、その代わりお金があると買い食いをしたり、ほんのわが勝手なことが出来ますけれども、誰も注意するものも居りません、親があったらどうでしょう、着物が破れておったらその綻びを縫ってもやりましょう、顔が汚れておったらこうしてつかまえてでも、いやがるのをこうしておしのごうて、でもやります様に如何に言うてもきかんと言うなら、叩いてでも押し入れに入れてからでも、これでわかったか、わからんならもっとでも、せっかんする様なものです。
 ですから親のある子と無い子との違いと言うのは、おかげを頂かれると言う有難さではないのです、親なればこそ親があるからこそ、叩かれる場合もあると言うこと、そう言う意味に於いても、神様ちゃ有難いもの、親ちゃ有難いものである、ばってん親ちゃ怖いものであると言う事にもなって来るのである、そこまでの信心が分かって来たら、もうこれはある意味で、九里半じゃなくて十里の坂を登り切った様なものじゃ。
 この二十三日の月例祭の前講を久富先生が承っておられました、親先生がいつも言われる様に、金光教の信心はこの世で極楽のおかげが頂かれる、ためにはこう言う信心させて頂かにゃと言われるけれども、中々出来ませんと、所謂この世、極楽の信心、おかげが頂ける道だ、それを親先生は自分自身が極楽のおかげを頂いて、私どもに教えてくださるのであるからと、言う意味の事を話されました、私はここえ御結界に座ってその話しを聞かせて頂きよる時に、浄土と言うことを頂いた。
 土を浄める、いわゆる極楽浄土と申しませう、あの浄土なのです、久富先生がね、この真の信心はこの世で極楽が受けられると言う信心、一切合切を有難く頂いて行けば、この世は極楽と、の道が拓けてて来る、まあそこで一切合切を受けると言うてもです、只一切合切を受けれる状態と言うか、受けられると言うことはどう言う事かと言うと只もう虐待に虐待を受けると言う、みじめなところを通っておっても、虐待されておる様な中にあっても、歯を食いしばって只じっと辛抱しておると言う事丈では、極楽の道は開けて来ない、それこそ叩かれながらその手に縋って有り難う御座います、親なればこそとわからせて貰うと言うことはです、私は浄土のおかげを頂かなければならん、勿論仏教で言う極楽、仏教で言う浄土と言う意味とは違います、これは私が只その仏教的言葉を借りて来て言う 極楽と言う言葉も、浄土と言う言葉も、極楽と言うのはです、いつも有難い、それこそ蓮の華の上に座っておる程しのもの、いつも自分の心がです、平常心を失わんで済む、いつも心の底から喜びがわいて来る。
 有難い勿体ないの信心がわかる、そういう、勿論おかげも伴うでしょう、そう言うおかげの世界を私は極楽と言う、だからそう言うだから親先生がこの世極楽の道を説かれるから、私どもも頂かにゃならん、親先生自身がそこんところを頂いてござる、わが自身が頂いて私どもに教えて下さるんだからと、久富先生が言うておられる時に浄土と言うことを頂いてです、私はいよいよ成る程なと思えて、極楽浄土でなくて、だから浄土なくして極楽なしと言う事になるのです。浄土が上につくわけです、浄土なくして極楽なし、浄土と言うのは土を清める、どろを清める、言うならば大地でいうなら、その大地を肥やす、沃土とする何を蒔いてもよい芽が出る、よい花が咲く、よい実りが出来る程しの、土地にしなければならない、私どもがいわゆる、大地の心を心としてだけではなくて、その大地を黙って受けて歯をくいしばって辛抱して受けて行くではなくて、その受ける事そのことがです、有難く受けれると言うこと、これがです、その土と言う事はここでは心と言うことになるでしょう、その心が清めた上にも浄めておられなければ有難くはうけられんのです、よい芽はきらん、よい花はさかん、よい稔りはないと言うことになるのです、成程浄土なくして極楽なしと私は言えると思うのです。
そこでです、信心とは日々の改まりが第一であり、信心とは本心の玉をみがくものぞやと言うことがです、分からせていただいたら、もうこれは愈々九里半の坂を登ってもまだ安心はならん、十里の坂を登り切ってはじめて安心じゃと仰るが、そういう信心がわからして信心とは本心の玉を研くもの、信心とは日々改まりが第一と言うことがです、実感としてわからして頂くことの信心が出来たら、神様ももうこの氏子は大丈夫と言うことになられる、そこに安心の大みかげと言うのがあるのじゃないでしょうか、天地の神様のいわば安心その安心が、私どもの方へ帰って来る、そこに私どもが日々安心の生活が出来、それこそ極楽である、その極楽の前に前提として浄土の信心、土を浄めといくと言う信心、信心とはそしてそれだと、思いこまして頂く程しの信心ができたら、愈々あの氏子はもう大丈夫と言う安心を神様の方がなさる、そり安心が私どもの方へ帰って来る、それを仏教的な言葉で、言うなら極楽往生と言うことではないでしょうか。
 極楽往生と言うことは死んで行く事じゃない、そこにすまわせて頂けれると言う事、極楽に住まわせて頂けれると言うこと、同時に仏教の言葉で言うなら大安心と言うことになるであろう、所謂私どもが日々本当に安心の生活、心配のない不安のないそう言う生活にはいらせていただくと言う事がです、いうなら安心を求めての信心、宗教に依らなければ頂けることのない安心、どの様な場合でも安心、安心立命とも申しますね、仏教の言葉で言うと、そう言う私はおかげを頂かして貰うそれには私どもがね、浄土のおかげ、信心とは本心の玉を研くものだと言う、信心とは日々の改まりが第一だと、言う事がわかり改まることの楽しさ、研いて行く事の有難さが、愈々わからせて頂いたら、もうあの氏子は安心だと神様が安心して下さる。その安心が私どもに帰って来る、それが安心立命なのだ、安心立命と言う事を仏教的に説明すると大変難しい事でしょう、けど私が言う安心立命、それが極楽である、それが極楽往生した人の姿である。
そこで今日は、氏子十里の坂を九里半登っても、安心してはならんぞと、だから安心の出来るところまで、例えば今申しましたですね、野口さんところの若夫婦がまだそれこそ数える程しか参ったことはないけれども、親達が有難い、有難いと言うて参るから、時々ついて参ってきよったが、この頃はその有難いおかげの頂けることもわかって来たが、近くなりましたから繁々お参りも出来る様になった、そしてわからして頂いた事は若夫婦が話しておること、夫婦二人で合楽に教会にお参りさせて頂いたら、御理解を頂いて来ることが値打ちだと、話しておる、そこまでのところが、例えばそう言う信心がその若夫婦にわかったら、もうお母さんあんたも安心ねと言う事になれる訳です、これは言うならばこれもあね意味合いではもう十里の坂を登った。 親も安心、娘を嫁にやる問題も有ろう、様々な難儀にもあろうけれども、そう言う時にです、御教えを頂かして貰っておかげを頂こう、御教えによってそこから道を開こうと言う例えですね、そう言うものが身について来る。
所謂合楽にお参りしておかげを頂かなかったら、もう合楽にお参りする値打ちはない、どれだけ熱心に参ってきよっても、それは例えば私から見ても不安である、あれだけ御理解か有難くなったら、安心だと言う事になる、と言う程度の低い意味合いに於いての、十里の坂を登り切ったと言う事、次ぎには神様は有難いお方じゃけれども、又怖いお方じゃとわかる様な信心、少し程度が高くなったそこんところがわからして頂いたら、と言うのを熊谷さんとこのお姉さん、と今の  さんのいわば兄弟に叩かれたと言う、踏んだり蹴られたりされたと言う様な、例をもって申しましたですね、これ二つは同じ例です。
そこから愈々ぎりぎりの言うならば、神様が安心して下さる程しの信心、それは本当に私どもが極楽に往生させて頂けれる、信心を願うその前提としてまず浄土のおかげをいただかねば成らない、とわからせて貰う、それをお道流儀に言葉で言うと、信心は本心の玉を研くものぞ、信心とは日々の改まりが第一ぞとおっしゃる、信心とはおかげを頂くものぞやと言う事ではなくして、信心とはもうその事を通して改まる、その問題を通してその問題その難儀を研く材料にして行くんだと言うそれが信心だと分からして頂いたら、神様が安心なさる、その安心が私どもに帰って来る、それが言うならば安心の生活、極楽の生活の、極楽に往生したも同じ姿であると言った様なことを申しましたですね、だから十里の坂を登り切ると言う意味を三つの例え話で申しました、段階をおうてね、だからもう少し細かに言うたら、もう少しございましょうけれども、お互い私どもがとの位のところ迄頂いておるであろうか、永年参っておっても、本当におかげは有難いばってん、御理解を有難いと思いこんでいない人がまだいくらも有ります、これではそれこそ私が見とっても心許無いと言うことになるのです。 どうぞ。